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Mari Takano Homepage/Snow Queen Mari Takano Homepage/Snow Queen オペラ「雪の女王」について

Snowqueenとは、私のことではありません。私が今も作曲中の室内オペラです。

全三幕のうち、今、だいたい半分くらいまで、作曲しました。

作曲家にとってオペラは、一番作曲するのが大変な作品ではないか、と思います。というのは、作曲において、全ての総合であるということと、また、その作曲家の人間としての本質的な部分もかいま現れてしまうからなのです。

オペラには様々な登場人物が現れますが、時には自分自身とは全く違うキャラクターも現れます。しかし、何かしら作曲者自身のどこかの部分で同調するか、その人物の心理情況を理解できなければ、良いオペラはできあがらない、と思います。例えば、モーツアルトのオペラがすばらしいのは、様々な登場人物が生き生きと描かれているからでしょう。オペラ「ドン・ジョバンニ」で、モーツアルトは、主人公ドン・ジョバンニは、自分自身の一部も投影することができ、かなり描きやすかったのではないか、と想像します。さらにすごい、と思うのはモーツアルトが、自分とは異なる性の女性3人が見事に描かれていることです。そこからも、モーツアルトは男女を問わず、人に対して、驚くべき観察力があったこと、そして直感があったことと思われます。

さて、私の場合、ストーリーは、アンデルセン原作の「雪の女王」です。

主人公ゲルダは、雪の女王に連れ去られた友達のカイを探して旅にでて、様々な困難や経験をし、再びカイと出会います。私は昔、このゲルダの映像にどうしても自分自身を投影することができませんでした。原作では、幼馴染みの友達を助けに行く勇気ある少女となっていますが、私には、なんでカイという少年を足にマメ作ってまで、追い掛けて行かなくていけないのか、(おまけに原作では、自分で雪の女王に付いていった)さっぱり理解できませんでした。

まるで学級委員のようなゲルダ、小学校時代から一風変わっていたせいで、学級委員にはもちろん選ばれず、皆がくさいから、と嫌っていた動物飼育委員になって、動物小屋を掃除していた動物好きの私と、原作のゲルダは大きく異なるように思われ、自己投影するには自分自身に嘘付いているようで、ゲルダになった気持ちで考えてみようと思っても、できませんでした。そんなある時、ふっと、感じました。一風変わった少女で良いではないか、と思ったのです。

私はシャーマンの話や、ヒーリングといったテーマにも興味を持っています。「雪の女王」の舞台である北欧の国々には、シャーマンの話もあります。こういったものを反映させて原作とは異なる優等生でないゲルダがヒロインとして、現れてきました。あとは、どうしてカイを探すのか、ということですが、これも子供の社会にあるイジメを素材として用いて、ゲルダが、カイを探しにいく動機としました。

最近、いくつかのコンピューターゲームの話を聞きました。主人公が旅して、最後には目標を達成する、というテーマのゲームの中で、主人公は、目的も分からずに旅をはじめるが、ゲームが進んでいくにつれ、時には、落ち込みながら旅の理由がわかってくる自分探しの旅、のようなゲームがあるそうです。

これもゲルダの旅の参考となりました。全て便利になり、何でも手に入る現代において、自分がしたいことが見つからない、自分探しをする若者は多くいると聞きます。まさに、現代人においては、一生は、自分探しの孤独な旅なのかもしれません。この感覚をゲルダの旅にも写し出せたら、と思っています。

しかし、まだ解決できない点はあります。特に大きな問題は最後の結末です。

ゲルダが雪の女王の城の入り口を見つけるまで、おもしろいストーリーを考えたのですが、どうもカイを見つけていっしょに帰る、という結末にしっくりしません。凍った心がゲルダの涙でとけ、氷のかけらが「永遠」という言葉に並んだところで、自由になりゲルダと一緒に帰る、と原作ではなっていますが、私にはどうも納得しがたく、ここのところが、解決できれば、完成となるでしょう。


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